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招聘アーティスト福永信が、笠島滞在中に綴った日記です。






瀬戸大橋が見える窓
9月28日(木)
「瀬戸内アートウェーブ」に招かれて、今日から十五日間、丸亀と岡山のあいだ、瀬戸内海に浮かぶ本島の笠島地区に滞在する。今、その一日めが終わる。宿泊は海に面した一軒家。大きな窓から瀬戸大橋が見える。闇に溶け込みながら、点滅する小さな明かり。目にとびこんでくる。いや、とびこんでくるといえばむしろ音だ。タプタプ、タプタプ。防波堤にあたる波の音が聞こえている。タプタプ、タプタプ。
「女の勝ちっ!」「はい、男の負けっ!!」これがあたまをまわる。「女の勝ちっ!」「はい、男の負けっ!!」。夕暮れ、広場で、おばさん、おじさん、おばあさん、おじいさんがやっていた球技。まず赤い小さなボールをとばす。そのボールに近い位置めがけて、こんどは重い野球のボールほどの大きさの鉄球を、交替で投げていく。その正確さを、性別によって分けられたチームで競っているのだ。「ペタンコ」というのだそうだ。「女」は「男」より近い位置に鉄球を放ち、「男」に勝った。だから「女の勝ちっ!」「男の負けっ!!」なのだ。「女の勝ちっ!」「男の負けっ!!」と何度も聞いたように思っているのは、しばらくその「ペタンコ」をみつづけていたからだ。それにしても、「女の勝ちっ!」「男の負けっ!!」という声ばかり記憶しているのは、「女」ばかりが勝っていたからだろうか。たしかに球の位置をきびしく見つめる「女」たちの声によって微妙な判定は「女」のものになっていたが……。
「女の勝ちっ!」「男の負けっ!!」そんな声が頭のなかで波とまざって聞こえてくる。「女」「男」……そういえば私はまだ、この土地に住むだれの名前も知らない。私もまたここでは「男」であるにすぎない。タプタプ。タプタプ。








左が大倉邸東
9月29日(金)
七時起床。快晴。おはようをいいに外へ出る。
防波堤にたたずむ老人ひとり。コンクリートがこぶみたいに出っ張った部分に腰かけて、ピンク色の携帯電話を片手に、前方の瀬戸内海(岡山方面)をただジッと見ている。思いきってその小さな背中へ向けて声をかける。おはようございます。無視。えーと、おはようございます……。また無視。耳もとで大きな声で、おはようございます! すると、「ああ? ああ」老人はようやく、振り向いてくれた。「ああ?」にトゲトゲしさはなく、たんに聞こえなかったのだ。「ああ?」の次の「ああ」はまるで、知りあいみたいに親しげなニュアンスだった。「なんじゃい? ああ、きみか」、そんな感じにすら、受けとめられた。
いつもここで海を見ているんですか、と聞いてみる。滞在中は島の人たちと交流をもって下さいといわれているのである。「交流」といわれても全然絵が浮かばない。というか、絵に描いたような交流の図しか浮かばず、右のような質問となったわけだ。しかし老人は、そんなへたっぴ質問者がとことこ近寄ってくることなどすでに予定にあったことだというように携帯の画面を一度、チラッとのぞいてから、語りだした。「いつもって、高槻に住んどるんだから。大阪。ここは生まれて育った場所、うしろ見てみ、あそこや、そこで育ったんやが、いまは誰もおらん。空家になっとる。昔はここらも店がようあったけど……。何ってそら、一銭菓子屋とか氷屋とか。いまは全部空家。二週間ほど前にしばらくぶりに戻って、もうすこししたら高槻に戻る。あそこに見えるお宮さんにもよく行ったよ、子どものころ」
別れ際、私は自己紹介をした。ワークショップをやるために二週間滞在して、その成果をもとに十一月、展示をこの島でやるのだ、というと、老人はまた「ああ? ああ」といった。一瞬、しまったと思った。警戒されたのではないか、と。だが老人は「今日は人と会わなきゃならんから、また今度、島で子供のころよく行った場所なんか、車で案内したるわ」といってくれた。「交流」の下心は見すかされていたのかもしれないが、警戒されたわけではなかった。「ああ? ああ」も、「ああ、ワークショップか。まあがんばりたまえ」という意味だった気がした。
午後は十一月の展覧会の場所となる旧真木邸で「小猿(こざる)」の使い方を習った。








旧真木邸内部(撮影:SAW)
9月30日(土)
「小猿(こざる)」というのはカギのことである。
木の雨戸上部に取りつけてある二本の細い木の組み合わせのうちの一本をひっぱり、もう一本を上へ押し上げると、雨戸は動かなくなる。なぜこんな名がついているのかわからない。
私は今日から毎日、宿泊している場所から、十一月に展覧会をやる旧真木邸へ通い(といっても歩いて一分もかからない)、「小猿」をひっぱり押し上げて、雨戸を開けることにした。そしてそこで、ワークショップや展示のプランを考えるつもりなのだ。
考えるというより、たっぷりとした静かな時間をもてあましているといった方が正確かもしれない。ねっころがったり、立ち上がったり、中庭を見たり、常駐スタッフのマツモト君としゃべったり、ツシと呼ばれる中二階(ロフト)にあがってみたり……小猿のように真木邸内をうろちょろしてしまう。
ごろっと横になり、涼しい風とともに、耳をすますと、「さて、やがて、塩飽大工となって島内に限らず外へ出て宮大工として活躍します。あとで二階へ上がられたらわかるが、屋根のかたちをご覧になって下さい。ちょうど船をひっくりかえしたようなかたちをしているのがおわかりになると思う。よく、大工は曲がったものをまっすぐに使い、船大工はまっすぐな木を曲げて使うと、こういわれるが、その特徴が出ておって……」というりゅうちょうな語りが聞こえてくる。すぐ向かいの笠島まち並保存センターの館長タカシマさんが、訪れた観光客に語っているのだ。「小猿」という名称も、戸の開け閉めも、このタカシマさんに教えていただいた。ムスッとした顔でこわそうだが、「このカギの名前、なんていうか知っとるかな」といったとき、いたずらっぽい優しい笑顔になった。私を含め、まわりにいた数人が首をかしげていると、「『小猿』というてな。なんでかはわからんが」とやや得意げで、しかし「なんでかはわからんが」の部分はちょっとはずかしそうに、そう述べたのだった。
まだタカシマさんの声が聞こえてくる。今度は「親苦、子楽、孫貧乏」ということわざ(?)について説明している。
もう何年もくりかえしてきただろう、それらのセリフは、しっかりした声のせいもあるだろうが、すぐ向かいとはいえ、道をはさんだこちらに丸聞こえであり、そのことはきっと、「塩飽大工」の昔から、家々から発せられるさまざまな声が全部丸聞こえであったであろうことを想像させる。にぎやかな声が、この風みたいに筒抜けていく。そのようなことをタカシマさんが語り終え、観光客も帰ってひっそりとしたこの場所で、考えつづけていた。





同じ日(1)



同じ日(2)
10月1日(日)
「もうこのへんじゃ自分くらいのもんじゃ」
ノベナワ漁でタイを獲る、日光丸船長・ヤマグチさんは語る。
「あとはみんなソコビキアミで、仕掛けて、一挙に大量にやってしまうからな。大きな船で機械をつんで、資本がちがうから。こっちは一人で糸たらしていって、二十七匹じゃ子供のこづかいにしかならん。ただスリルがあるけん。指でこうして……、細い糸だから素人にゃきれてしまうよ。そりゃ三キロぐらいのがかかるとすごい力になる。大きな目でこっちを見よる。タイは大きな目やろ。そしてきれいやろ? 鮮やかで金をふいて。養殖だと色も全然ちがう。色つけをなんとかしようとしてるが、天然にはかなわん。たぐりよせて船に近づいてきたら、アミですくいあげるんじゃが逃げようとするよ。あ? いや、はねん。船にあげてしまったらな、おとなしうしとる。ここの海の底の地形は全部わかるよ。橋のあのへんが、いちばん深い。で、このへんであさくなる。流れはものすごくはやくて、わあっと砂をまきあげて。タイは流れのはやいところにいる。え? ああ、潜ったことはないわ。いつもやっとるからわかってくるんじゃな。タイはつづけて同じところにはおらん、おるところは決まっとって、だから別のところに行って、二日後くらいに戻ると獲れる。二日もしたらタイも安心するんじゃろう、いなかったところに戻ってくる。値はもう半分くらいになってしまった。そりゃ外国から安いのが入ってくるから。昔は、ニベという魚もアミで大量に獲っとった。三百キロぐらい、いやもっとかな。ん? いや、いた。沈んだ船もいた。重すぎて。だってアミにくいこんだのを取るだけで六時間かかるもの。全部取ったらすぐまた漁に出る。ほかの船と競うようにしてな。若かったからな。二十五歳くらいのとき、貨物船に乗っとったこともあるが人につかわれるのがいやで、それで船をつくった。漁師は家業を継いだだけで好きじゃなかったが、つかわれるのより、いい。それで五十年やってきたが、一人だけになってしもうたが、まあ、よかったんじゃないかな。そう思うほかないけど……」今日の朝、船の手入れの手を休め、身振り手振りで語ってくれたその言葉を、昔の若い二十五歳のヤマグチさんも、「あと五年じゃな、漁師やれるのも」という今のヤマグチさんの姿も、変わらず見つめてきた海を窓越しに見ながら、夜、ノートに書きとめる。





お祭にて(撮影:SAW)
10月2日(月)
尾上(おのうえ)神社でお祭。
お祭といっても、屋台が出るでもなく、みこしがかつがれるわけでもない。儀式のみのお祭。 その末席に、はしっこに、参加させてもらう。タカシマさんは自治会長でもあるので、司会のような役割をしている。男たちが左右に分かれて座し、神主の動きにあわせて頭をたれる。女たちは後ろの方(私の近く)。皆に酒と米(生)がふるまわれる。米は数粒をそのまま口に入れる。新米だそうだ。
やはり同じようにはしっこに座っていたのは、この場でも若手の(四十位)男性・イシイさん。ゴーグルみたいな、なかなかかっこいいメガネをしている。十一月の展示で使おうと思っている、好きな、あるいは今、パッと思いついたひらがなを一つ書いて下さいと話しかけてみると、【く】と書く。迷わず書いたので、訳を聞くと、これも迷わず「苦しいから……」。訳を聞くと、「失業中だから……」。訳を聞くと「米造りをやめたから……」。訳を聞くと「親父が死んで……」。聞くとなんでも即答してくれるイシイさんは、初対面の私に、よくみがかれた、かっこいいメガネをキラキラさせながら、祭りの話をしてくれる。
「大人がかつぐのと、中学生以下がかつぐ『さしましょ』というみこしがあって……、下の公会堂のところにあるのを見ませんでしたか……。いや、それは大人ので、子供がかつぐのが、大きい方なんです……。あのなかでタイコをたたいてたんです……。体がちいさかったから……。いや、せまいんですけど、大丈夫ですよ……。いや、まさか……。とりわけ上手だったかどうかはわからないけれど、体がちいさかったですから……。面白かったけど……。そう、今はね、子供がほとんど、いなくなったから……。大人も、かつぐことがなくなったから……」
休憩みたいな時間(神主が男衆をひきつれて、いったん外に出る)にその人自身がそのまま伝わってきそうな、ものしずかな声で語ってくれる。タカシマさんが、「これからの一年、ゆたかですごせることと思います。これで祭を終わります」と、シメの言葉を、儀式が全て終わったのち、述べた。タカシマさんの声もシャキッとした、人柄をそのまま伝える声だ。
海に行くとヤスダさんがいる。ヤスダさん、と声をかけるとこっちを見て、ニコニコしながら「わしゃヤスダじゃないんや」という。こないだ自分でそういったじゃないですか、というと、「今、姉の家に来とるから。姉の家がヤスダ。わしはトヨシマ」。そういえばこないだ、「高槻に今住んどる」といっていたなと思い出す。トヨシマさんはサシモノ大工。大丸とか阪急とか喫茶店、その内装、たとえばカウンターなど、作っていた。その工場の社長さんだった。
ひらがなを一つ書いてくださいと紙とペンをわたす。「ひらがな? 好きなひらがななんか、考えたことあらへん。ひらがなちゅうても、いろいろ……ひらがななんて、そんな、考えたこともない。好きなひらがななんて……『大』やな」と、紙のはしっこに『大』と小さく書く。ヤスダさんではないトヨシマさんの、なんだか知らないがその全てが、うだうだ言う声とその小さな『大』に込められて、私にずどんと伝わってきた。
ウメタニさんと丸亀市のヤマダさんと一緒に中学校と小学校へ。ワークショップをやるのでその打ち合わせに。その後、メンバーのヒラノさん、ミツイさんも合流、初めて会う。夜、マツモトさんがチャーハンつくる。











































屋根ガワラと青空(撮影:SAW)
10月3日(火)
昨日の夜はライブがあった。宿泊しているここ(大倉邸東)で、ヒラノさんがギター片手に、椅子に腰かけ、ロック、オリジナル、ポップスの三部構成で、マツモトさん、ミツイさん、私の三人の観客を前に、三人の手拍子とともに、大人の男の魅力を怪しげに漂わせながら。ヒラノさんは建築家、ミツイさんは彼の事務所で働く助手で、昨日の昼、瀬戸内アートウエーブのメンバーとして本島に到着した。中学校で合流し、みんなで大倉邸東に向かうとき車の中にギターケースを見つけた。ヒラノさんかミツイさんが持ってきたにちがいないが、てっきり若いミツイさんが弾くのだと思っていた。車から出すときも彼女が持っていたし、落ち着いたその雰囲気にアコースティックなサウンドは、これはなかなか、合うじゃないか、ツジアヤノとかそういう感じかな、ぜひ、あとで、聴かせてもらおう、そう思って手を洗って居間に戻ると、すでにギターはなく、ヒラノさんがいない。ミツイさんはいる。マツモトさんも、ウメタニさんもいる。
念のため、あれ? ヒラノさんは……と聞くと、「ヒラノは今、歌いに行きました」とにっこり。そして約三十分後、額に汗をたくさん浮かべて、満面の笑みをたたえて、「今日はお祭りだったんですね。前にきたときのこと、島の人たちも覚えていてくれて、また歌いにきたのか、と。日本の歌だとやっぱり一緒に歌えますね」。そして、夕食(チャーハン)のあとそのまま夜のライブに突入したのだった。ライブの後、もうけっこうな時間かなと思って時計を見ると、まだ九時半くらい。島に来てからつくづく感じることだが、時間がゆっくり流れる。とくに夜は時計がとまっているのかと思うくらい。だからなのかもしれないが、その後、今度は夜が更けるまで、展示方法の話し合いになる。たしか九月三十日、本島に入って三日めになって、ワークショップのプランを大幅に変えた。京都で、電話やメールでウメタニさんと打ち合わせを重ねるなかでは、ひにちを決めて、ワークショップをすることになっていた。この島の記憶にまつわる言葉をひきだして、その言葉をみんなで写真にしてみる、という具合に。けれど、二十八日に島に来て、実際にこの場所に来てみて、おばあさんおじいさんたちと言葉をかわすうちに、これはちがうな、集まって限定された時間のなかで何か作業をする、そういうことではないなと思えてきた。どうしようかな、こまったなと大倉邸東のテーブルで、頬杖ついて海を見ていたのだが、ノセさんの持ってきていたらくがき帳が置いてあるのがたまたま目にとまった。よし、これを使わせてもらおう。これを持って出て、漁師のおじいさんや畑仕事をしているおばあさん、ここの人たちに何か書いてもらおう。その場で出会いがしらに、いきなり、やってもらおう。何がいいだろう。やってもらうことで会話につながるような、驚きのあるもの、だけど簡単なもの。そこで思いついたのが(昨日もトヨシマさんにやってもらったが)、ひらがな一つを書いてもらうというものだった。たくさん集めて、京都に戻って文章になるように順番を考えて展覧会のメインの作品とする。ごく自然に思いついたことだ。「なんやけったいな」とかいいつつも、笑顔で足をとめ、書いてくださった。そこからご自身の昔の話、古い記憶が不意に語られることもあり、ひらがなをひとつ書くことにはそれほど意味はないかもしれないけれども、そのために私が笠島地区をうろうろし、島の人たちと出会い、その場で言葉が生まれれば、それは一つのワークショップではないか。ここで海を見ながら考えた、ここでしかできないワークショップ。集めたひらがなが文章になれば、おそらくひろがりのあるものになる。
ただ、集めたひらがな、文章としてのまとまりをもったそれを、いったいどのように展示したらいいのか、さっぱりわからなかった。そしてそこのところを昨夜、ライブが終わった後に夜更けまで話し合ったのである。歌がうまいだけでなく、さすが本職というか、ポンポンと案がヒラノさんの口から出てきた。そのうちに、いうだけでなく展覧会場として使う旧真木邸で今集まっているひらがなを並べて、試してみようということになり、それが今日というわけである。すこし眠いが九時に真木邸を開けた。あらためて、昨夜の話を念頭にこの場所を眺めてみると、意外に奥行きがない気がした。この場でもいろいろアイデアが出る。ヒラノさんの姿がないので外を見ると、屋根ガワラを見ている。となりの保存センターのセオのおばちゃんが出てきて、「いい天気やねえ」という。たしかにくっきりとした青空が屋根の向こうに見える。なんだかものすごく美しい色だ。ヒラノさんは屋根ガワラを見ていたのではなく、空を見ていたのかもしれないとも思う。








































































「立派な塀」があった場所
10月4日(水)
昨日の夜もライブだった。
となりのニシモトさんがタコとベラという魚を持ってきてくれたところから、それは始まった。ヒラノさんが持ってきたおみやげ(どらやき)のお礼だというが、当のヒラノさん、ミツイさんは仕事のため高松に戻ったところだった。ウメタニさん、マツモトさん、そして入れ違いで合流したタグチさんとでごちそうになる。
一昨日はギターと歌で満たされた同じ場所が、今度は手拍子と声とで一瞬のうちに祭りの場になってしまった。

●あせをながして たいこたたく
 ドッコイセ ドッコイセ
 たいこ たたくも せんぞのくよう
 ホラヤトセ ヨイヤサノサ
 たいこ たたくも ほとけのくよう

 さあさ みなさん おどりませんか
 おいもわかきも わになっておどろ
 おどりおどるのも せんぞのくよう
 おどりおどるのも ほとけのくよう

●ノケヤ ノケノケ
 シワクノ フネジャ
 ナナジュウゴヒロ ヤーレヤレ
 ヨケシャンセ

「もうわしは八十をこえとんのじゃ」とハリのある大きな声でニシモトさんはいう。とてもそうは思えない。若々しく、というよりむしろ、たくましく、引き締まった肉体をしている。みんながとてもそうは見えないと口々にいうと、「仲間もおらんようになった。男で八十までいくのは、あんまりなくてな。七十くらいか。わしもそろそろじゃが」深くシワの刻まれた顔が困惑した表情になったように見えた。それから、刺身になったタコや塩焼きのベラに目をやり「おいしかろ? そうか、そりゃよかった。昔は、若い頃は大きな船に乗っておってな、金はなかったが、船をつくったんじゃな。そしたら、沈みよってな。ほんとじゃ。沈みおって、ドラム缶を船底に入れて少しずつ浮き上がらせたんじゃ。大変じゃったなぁ。それでよ、修理しとんじゃ。ハッハッハ。六十のときは、免許とろうと思ってな。そう、そう、そうじゃ、車の免許。金は無かったが、ナニクソ思うてな。これも取った。それで働いてやろうと思って運搬の仕事をしたらいきなりこんなトラックまかされてよ。それでよ、ナニクソ思うてよ、やりよったんじゃ」
歌はこんな語りのあいだに自然に、歌われた。「みこしも出たんじゃ、昔はな、若いのがいたんじゃ。おもしろかったなぁ」
今朝、真木邸をいつものように開けに行くと、セオさんが空を見上げている。セオさんは、真木邸の向かいのまち並保存センターで働いている。センターを訪れた観光客には、まずタカシマ館長が塩飽水軍、その後の塩飽大工としての歴史上でのこの島の人々の活躍を概説し、セオさんが、そういった歴史をうけついだ大正・昭和初期の生活を実物に触れつつ解説する(そういう役割分担になっていると、ようやくわかってきた)。
私と同じ齢の子供がいるからか、セオさんはいつも、なにかと気づかってくださり、「いい天気ねえ。気持ちいいねえ」といいつつ、いったんセンターにひっこむと、お茶とおせんべいを差し入れてくれた。
二人の息子さんと一人の娘さん、全員がもう独立しているそうだ。「総じて心配をかけることはなかったねぇ。長男なんかは、高校の学費から自分で出していたから。ただね、“ありがとう”、“おはよう”それだけはちゃんというように教えたよ。これだけはね」
観光客が来たのでセオさんはセンターに戻った。今日はタカシマさんが用事でお休みらしく、全部をセオさんが担当、ということらしい。
タグチさん、ウメタニさん、マツモトさんと、小学校、中学校でやることになっている
ワークショップの打ち合わせをする。言葉を与えて、それを使い捨てカメラで撮ってもらうという、そういった大枠は決まっているが、小学校一年生二年生にもわかるようにどうすればいいのか、まだこれといった案が浮かんでないのだ。タグチさんは、わかりやすさを第一に、たとえば何枚かずつ、時間を区切ってみんな一緒にやるのはどうか、と提案。
またウメタニさんはそれに同調しつつ、「興味のあるものを撮る」くらいのおおざっぱなテーマがいいのではと述べる。わかりやすさはもとめつつ、ある程度のわかりにくさは必要だろうというのが私の意見。なかなか具体的な案が浮かばないなか、ウメタニさんが、ふと「ここは、音よねぇ……」とぽつりといった。船の音、鳥の鳴き声、向かいの保存センターから聞こえてくるセオさんの解説の言葉、静かな島できわだつ、それぞれの音。たしかにこの島に滞在していて、いつも音の印象をつよく感じていた。
そこから“音を撮る”というワークショップのテーマが浮かんだ。わかりにくさ、むずかしさという不安は残るものの、これでいくことにする。何よりこの島でやるワークショップなのだから、この島で考えたことが相応しいと思えた。
夕方、タカシマ館長がもう一人のタカシマさん(ここはタカシマ姓が多い)と、空き地を前に、談笑している。近寄っていくと、「ええ塀じゃった」といっている。
「子供の頃、よくのぼったんじゃな。今はないからわからんが、立派な塀があってあそこまでずっと。あれはええ塀じゃったなぁ」寄合の後らしく、てれくさそうに「ちいと酔っておるが……」
もう一人のタカシマさんは、畑仕事をしていたようだが、やはりニコニコしている。「そう、よくのぼったな」
二人のタカシマさんは、このあたりに子供の頃から住んでいて、子供の頃から仲よしで、塀をのぼってひとの家の庭に入り込んだりしてあそんで、おじいさんとなったいまでも、このあたりに住んで、塀をよじのぼったりはしないが(そもそもその塀はもうないのだが)、やっぱりずっと仲よしで、こうして立ち話をしている。そんな日常の、おそらくこうして立ち話しているのも何度もくりかえされているのだろうが、なぜか、今、こうして書きながら、強いものとしてこちらに迫ってくる。大きな歴史とは何も、関係のないことのはずだが、すぐ消えてしまうはずのものなのだが。


























セオさんと向かいの保存センターにて(撮影:SAW)
10月5日(木)
雨。しとしと、降り、ときどき降りやむ。十時頃、真木邸を開けにいく。今日は天気もわるいし、ひらがな集めに行くのはやめて、明日の〆切の原稿を書こうと原稿用紙を出していると、タカシマ館長が窓からサツマイモを差し入れてくれる。「茶も入れたし、よければ飲みに来たら」
出したばかりの原稿用紙をしまって、お向かいの保存センターへ。今日はセオさんがお休みでタカシマさん一人だという。
「今日は寝坊したんか。ハハハ、それもええ。おととい島中あげての祭りがあったが、こういうときこそ、あんたら来るべきじゃったのに……。まぁ、教えてやるっちゅうのも、そういうナニは、あんたが調べてじゃな、やるべきじゃろうからな」
と、いたずらっぽく笑う。「まあ、飲みなさい」とお茶を煎れてくれる。ふかしたサツマイモが、五つ、広告の上にのせてある。
「昔の人間は、男子厨房に入らず、で男は仕事で、女は家庭を守る。仕事から帰ってきたら、もうメシが出来ている。そういうのは昔のことで今の若い人はちがうじゃろうがね、だからふだんは自分でやったりしないのだが、たまたまふかしてみたんでね。そらそうよ、自分の畑でとれたもの。うまいかどうかわからんが……」
タバコに火をつけ、フーッと煙をはく。自分はあまり食べない様子。私はパクパク食べる。甘くておいしいのだ。観光客が訪れる気配もなく、ただしとしと、雨が降っている。タカシマさんに、ずっとここ(まち並保存センター)で働いているのかと聞くと笑って首を振る。タバコを灰皿におしつける。
「わしの本業は大工やから。昔から大工の家系だが、器用ということもあったのかな、まあ向いていたんでしょう。若い子を教えていたりすると、この子はどうも見込みがない、というのはあるわけです。ほかの仕事についた方がいい仕事をしよるだろうというのはあって、それは大工に限らんだろうが、わしの場合は大工で、床の間といった、これは家を建てるなかでいちばんええところですが、そういうところをいつもまかされてきた。自分のことなんでいいづらいが、棟梁や先輩をさしおいて、やることも多かったわけですな。困ったこともあって、いちばん困ったのはメシのとき。家を建てるときは、その依頼側が昼・夕と、当時はメシを用意してくれるんじゃが、棟梁から順番に回ってくる。下っ端は最後で、なかなか回ってこない。せっかく来たと思ったら棟梁より先に食い終われと、こういうナニがあるわけです。これは困った。だから自分がリーダーになったときは、メシだけはゆっくり食いなさいといいました。若くてたくさん食いたいさかりじゃったから本当につらかった。昔は住み込みで大工の技術は教わって、四・五年というところ。十六くらいから二十一までに習得するわけ。二十一の齢でみんな徴兵検査だからね、男は」
タカシマさんは、またタバコを一本とりだした。一人前になったと思ったのは何歳のときですか、と聞くと「それはない」と即答。
「一人前になったと思ったことは、これはありません。いつも、もっとよくならないかなと、そういうナニがあるんじゃな。一生懸命やっておるよ、そりゃ。だけど次、また次と。今だって、こういう館長やったり、自治会長したりしておるが、それがなくなれば、また道具箱もって……」そういって火をつけた。
夜、クワガタ(小)が網戸にはりついているのを発見。夕飯を作ってくれていたマツモトさんがクワガタにりんごを与える。マツモトさんはとうとうクワガタの飯当番にもなってしまった。























ひらがなたち
10月6日(金)
朝、八時三十分に中学校に向かう。快晴。
ワークショップの当日である。スタッフは私のほか、マツモトさん、ミツイさん、トクマルさん。トクマルさんも瀬戸内アートウェーブのメンバーで、今回は映像や写真で記録をとる。
一時間め(八時四十五分)なので、それまで校長先生とシラカワ先生と直前の打ち合わせ(これまでも二度ほど、打ち合わせをしている)。
家庭科室に全校生徒(十二名)集まる。先生たちも。自己紹介のあと、まず準備体操のようにひらがな一字、紙に書いてもらう。男子四人はさっそく、ば、か、あ、ほ、と書いている。
「音をカメラで撮る」という説明を次いで、やるが、伝わっているのかどうかわからず。反応があまりなく、私のへたっぴ説明に拍車がかかってしまった。
とはいえ、事前に先生方がワークショップのことを伝えてくれていたので、学校中にちらばっての撮影もわりとスムーズに進行した。また、先生もまじってくれたので、にぎやかになった。ただ、数人の女子、男子は、話しかけるとテレくさそうに何かいってくれるが、なかには不審そうににらんだりする子もいる。そりゃそうだ。とつぜんやってきて、使い捨てカメラわたして「音をカメラで撮ろう」なんて、考えてみたらかなりあやしい。むしろ、とことんあやしく、日常とちがう、いつもとちがう一時間めだと思ってもらえなければ、意味もない。
三時間めに、文化祭でやるという人権劇の稽古も見学させてもらう。演出の先生のハッスルぶりがいい。初日ということで読み合わせ中心の練習。ば、か、あ、ほ、と書いていた男子四名も、笑いをさそったりして、なごやかな感じ。ひきつづきトクマルさんが映像を撮っているので、それも多少、影響しているかもしれない。
最後、帰るときに生徒全員にあいさつを言ったのだが、そのときは何か、こちらを受け入れてくれているような、そんな雰囲気になってた気がする。一時間めだけで切り上げなくてよかったと思った。ウメタニさん、マキさんと合流。が、少し打ち合わせをしてすぐに丸亀へ帰っていく。忙しそうだ。ミツイさん、トクマルさんも島を離れる。
マツモトさんと真木邸を開ける。十三時すぎ。いつもよりだいぶ遅い。今回の滞在で得た、島の人たちの言葉(この日記で書きとめてきたものがそうだ)、ひらがな一字、書いてもらったものや、ワークショップで撮ってもらった写真などを展覧会のかたちで来月、この真木邸で発表しなければならないのだが、今のところまったく、具体的にイメージできていない。ひとまず、中二階からラジカセで音を出してみたり、試せることをやってみる。先日のニシモトさんの歌をマツモトさんが録音してくれたので、それを流したらどうかと思ったのである。
夕方、マツモトさんに運転してもらって島一周する。十六キロほどだが、あちこち止まりながらなので、二時間ほどかかり、戻ってきた頃には、真っ暗だった。中学校の校長先生に教えていただいたベストスポット、屋釜の浜は、なかなかうつくしかった。男二人、別々の場所に座り、しばらく海をじっと見つめる。夏は海水浴でにぎわうそうである。大倉邸東に戻るとクワガタがいなくなっている。





私の洗濯物
10月7日(土)
徹夜してようやく『ユリイカ』用の原稿を仕上げる。十五枚ほどだが、手書きのため、難渋した。ほかにもやりかけの原稿を持ってきているものの、まったく手をつけていない。京都に戻ってからがおそろしいが、ひとつ間にあってよかった。しかし、それにしても不思議な偶然である。大竹伸朗特集の原稿を、方角はちがえど、瀬戸内海を見ながら書くことになろうとは……。
外に出ようとしたら、クワガタがひっくりかえっている。
昼、いったん岡山の実家へ戻るマツモトさんと入れ違いでウメタニさんが来る。展覧会およびチラシ・ポスターの打ち合わせ。タカシマさんの先日の話が面白かったので、あらためて話を聞こうとお願いに伺う。「余計なことをいいましたかな」とタカシマさんは笑って快諾してくださる。明日の夜に大倉邸東に来てくれるとのこと。
トクマル夫妻来る。ウメタニさん丸亀に戻る。夫妻が仲よく料理を作ってくれる。シャケと味噌汁とごはんとポテトサラダなど。早々に寝る。












〈大漁〉タカシマさんの背中




















タカシマ館長、語る(撮影:SAW)
10月8日(日)
朝九時に真木邸を開ける。今日と明日、どんなふうに展示をやったらいいか、いろいろ思いつきを実験してみるつもりなのである。タカシマさんがサツマイモを持ってくる。「はい、朝食や」
集めたひらがな一字を畳の上に言葉になるように並べてみる。しかし、たとえば「あ」や「わ」が多く、できた言葉は「たくさん」、「ひなた」、「わかば」、「わしは」、「あゆむ」など。並べてみて、圧倒的に数が少ないことが判明する。けっこう集めたつもりでいたのだが。
もっと集めなければ到底、文章なんて作れない。というか、数を集めたところで本当に、文章なんかできるのだろうか? 滞在期間もあと四、五日ほどになり、不安がつのる。
ユヅキさん、つづいてノセさん、マツモトさん合流。全員で手分けして、偶然の出会いを待つのではなく、家や畑を直接訪ね、ひらがな一字、書いてもらうことにする。畑に向かう、〈大漁〉と大きく文字がつけられた帽子をかぶった、これもタカシマさんというおじいちゃんを見かけたので声をかける。〈大漁〉タカシマさんにはすでにひらがな一字は書いてもらっている。謎だった帽子についてたずねると、「そうや。大漁。漁師。やっとったんや。いまでも、自分の分は獲ってくる。そうや。畑。売ることは、ない。これも、自分の、分だけ。こうてくれへんもん。だから、親戚に分けたり、いろいろ。あとは、自分のとこで。にんじん。だいこん。チンゲンサイ。いま、草とりにいくところや。日もしのぎやすくなってきたから」
畑ではほかにも何人か作業している。イモ畑の老夫婦に声かける。ひよけのほおかむりをして、いかにもおばあさんといった風情、旦那さんは丸顔で優しそうな表情。二人ともしっかり日焼けしている。このミヤケ夫妻に、事情を話してひらがな一文字、書いてもらおうとするが「回覧板やら何やら、まわってきたが、まったくわからんのよ。ヨコ文字出されてもわからん。電話もかかってきたがの、きってしまうの。この頃いろいろあるから。だから、ひらがなゆうても、書けん」とミヤケおばあさん。ミヤケおじいさんも「もうわしらボケとるからの」と笑う。どちらからもトゲトゲしさを感じないのが不思議だった。ことわられているのだが、そんな気がしないのだ。
かさねてお願いすると、ちょっとテレくさそうに麻袋からサッと出したマジックペンで、書いてくれる。マジックペンは、おそらく、イモを分類して袋に分けるとき、使うのだろう。こちらが貸すペンではなく、自前のマジックペンで書いてくれたことに、どういうわけか、感動する。
港の方へ移動すると、ちびっこ三名。男の子二人と女の子。こんにちはというと、「こんにちは」といってくれる。会ったこともない(そして、今は三人とも大人のはずの)セオおばちゃんの子供たちと重なる。あいさつはしっかりしつけられた三人の子供たち。
ひらがな書いてくれる? と紙をわたす。大きい男の子の方が、小さい男の子の肩に手をおいて「この子はまだ書けないから、二人で書く」といってくれる。男の子はかずきくん、女の子はあぐりちゃん。いっぱい集めてね、展覧会をさ、この先の真木邸で、来月のふれあいまつりのとき、やるからさ、見にきてね、というと、わかったようなわからないような、そんな表情で見上げる。
しばらく歩いて、また港に戻ってくると、別のちびっこ一名。船から船へ、とびうつって、階段のぼって、というのをくりかえしている。話しかけても無視。何度か話しかけてみるが、やっぱり無視。だが、一人もくもくとつづけるその俊敏な動作がおもしろく、しばらく猫をなでながら(いつのまにか近よってきた)、見物する。帰り際、バイバイ、といってみるがやっぱり無視。大倉邸東に戻る。
マキさん合流。六時、タカシマさん来る。Old Parr持参。ウメタニさんも到着。ワイン二本持参。夜中の一時までにぎやかにつづく。このタカシマさんのトークは、後日、私が文字起こしをして、構成することになっている。それをタカシマさんにチェックしてもらい、三月に瀬戸内アートウェ−ブがまとめる予定の、今回のプロジェクトの書籍に、載せるつもりなのだ。録音された声を聞きとり、それを文字に書き起こす、これもまた、コラボレーションなのではないかと思う。
九月二十八日の滞在前に作られたチラシには「島の人たちとの共同作業」とか「島民とのコラボレーション」なる言葉が書きつけられている。実際に島に、わずかにまだ十日あまりだが滞在してみて、そのむずかしさを痛感しているところだ。島の人たちが協力的でないのではない。むしろまったく逆に(これまで日記に書いてきたように)あたたかく、やさしく、ユーモラスで、協力的だ。「なんやけったいな」といいつつ、ひらがな一字を書くという、たしかに「けったいな」作業をやってくれる。また話しかければ、たちまち数十年の過去にまでさかのぼる話を、数日前まで見ず知らずだった人間(私)を前に語ってくれる。
だけど、どうも、「共同作業」「コラボレーション」という絵が浮かばない。そういった濃密な時間がどうやら、私には作れないらしい。また、「濃密な時間」そのものに、私は関心がないらしい。むろん、引き受けた仕事を投げ出すつもりはないが、芝居がかったことだけはやるまい、と思う。
















集団でひらがな集め(撮影:SAW)
10月9日(月)
昼、快晴。港で船を見送るおばあさん一人。話しているうちに、昨日のちびっこたちのおばあちゃんであると判明する。夕食のとき、ひらがな書いたよ、と話題になったとか。「あぐりちゃん、かずきくんとそんなふうに呼んでもらったことがうれしかったみたいで。わたしは、まぁあんた、字きたないのにかいたんな、とそういって」
ヒラノさんから電話。ノセさん、マツモトさん、ユヅキさんが島を散策しているので車がない。走ってとりあえず、本島港(フェリー・客船発着場)へ。途中で、ギターケースをもったヒラノさんがこちらへ歩いてくるのに出会う。もうひとつの包みはどらやき。また持ってきてくれたのである。
真木邸で、ひらがなの展示方法の検討。実際に、昨日集めた分もあわせて、あらためて並べてみる。
「かさ しま」「うみ なみ」「あみ わな」「わな あむ」「いか かい」「のき ほし」など、ヒラノさんと四つのひらがなでまとめてみるが、なかなかしっくりこない。これでいいような気もするし、全然ちがうように思ったりもする。ヤスダさんがセオさんといっしょに真木邸に寄ってくれる。ヤスダさんは、トヨシマさんのお姉さん。「弟が釣ったタコやけど、小さいけどよかったら」と、わざわざゆでてきてくださる。真木邸の床の間にある威臨丸の模型は自分のところにあったとか、昔の話になったので、ヒラノさんが「ここらへんは戦争の時はどうでしたか」と聞く。「あんまり、これといったことは、なかったけどねえ。そうそう、飛行機が尻浜の方だったか、落ちてそれを見に行ったことはあるの。敵か味方かは、わからなかったけど」
弟・トヨシマさんもそういえば、港でドイツの潜水艦が浮いたり沈んだりしてるのを見物に行ったといっていた。妹弟だな、と思った。
夕方、ノセ、ヒラノ、マツモト、ユヅキの面々で、昨日に引きつづき、集団でひらがな一字を暗くなるまで集める。
夜になると、なかなかはかどらない。訪ねた一軒で、「夜はこのへんは独りもんが多いから、とくに男が来たら誰もでんよ」と教えてくれる。もうひきあげようか、という帰り道、明かりがついている家があり、ダメもとで訪ねてみると、漁師のヤマグチさんのお宅だった。笠島に着いて間もないころ、船の手入れをしていた、タイのノベナワ漁を一人でやっている、ヤマグチさん。私のこともおぼえていてくれて、奥さんと二人なかよくヤマグチの「や」を書いてくれる。
朝、港で話した、ちびっこたちのおばあちゃん、トヨシマさんのお姉さんのヤスダさん、そして、ヤマグチさん。この滞在中に出会った人たち、そのつながりのある人たちと、再び出会うことのできた日だったと、今、思う。
ウメタニさんフェリーで到着。入れ違いで、ヒラノさん、マツモトさん島を離れる。マツモトさんはほとんどずっと私の食事を作ってくれたり、展示やワークショップの案などを検討するときの話し相手になってくれたりしたが、仕事の都合で、島での滞在は今日かぎりだった。
ウメタニさん、ノセさん、ユヅキさんとともに食事をとりつつ、展覧会についての打ち合わせ。瀬戸内アートウェーブの顧問であるノセさんより、ワークショップでの“音の写真”と、ひらがな集めの関連が今のままでは見えないとの指摘。代表のウメタニさんからも、同様の指摘を受ける。昨日と今日、真木邸であれこれ、考えてみたし、自分なりに説明を試みるがうまくいかず。しばらく無言のまま時間がすぎる。風の音がする。
「何もなくてもいいんだよ」と、ウメタニさんがいう。
そのひとことで頭のなかでも風の音が鳴って、昼間、畳の上に並べた紙がサーッと隅の方へ掃き寄せられる。たしかに畳の上に紙を並べたりするのは、ちがう、そう思えてくる。ホームページに日記を載せようと提案したのは私だが、それは真木邸みたいな具体的な“場所”ではなかったからだ。どこにでもある“場所”、むしろ“非場所”たる“画面”にいつも、私は自分の居場所を見つけてしまうような気がする。だから、そもそも、小説を書いているような気がする。そして、この笠島に来ても私は紙とペンをにぎっていた。島の人たちに、こんにちはって声をかけ、ひらがな一つ、書いてもらうための、それはぺンと紙だ。だが、その行為から、「なんやけったいな」その行為から、ときにながい話が、その島に暮らしてきた人の物語の断片が語られる。記憶の底から語られた言葉を記憶し、こうして夜、日記と称して書き留めてきた。ボールペンをにぎって、紙の上に書いてきた。これこそが、“ここ”でやってきたことだ。
















ヤスダさん(トヨシマさんの姉)
からもらった柿















〈音を撮る〉小学生たち
10月10日(火)
快晴。九時、真木邸を開けに。
今日は向かいの保存センターは定休日。タカシマさんの姿もセオさんの姿もない。いつもならこの時間、保存センターの古い家屋からは掃除機の音や、土間を掃いたり、観光客を迎える準備で忙しくされているのだが、戸も閉められてひっそりと、なんの音も聞こえない。いや、鳥の鳴き声が屋根のあたり、もっと遠く山の方から、聞こえてくる。
保存センターの定休日は当然、先週にもあったはずだが、なんというか、断然、今日のほうが“定休日”だと思えてくる。セオさんが「いい天気だねえ」と空を見ながら話しかけてくれないからだろうか。屋根ガワラ越しの青い空に、ほんといい天気ですねと、私が応じると「おうよ、雲ひとつないでえ」と、もうすでに何度もかわした、おそらくは日本全国、というか日本にかぎらずどこででも聞くことのできる平凡な挨拶が、たった一日欠けただけなのだが……。
道の先、垣根のところの石段に足をかけて何かしているのは、昨日タコをくださったヤスダさん、トヨシマさんのお姉さんだ。私に気づくと、テレくさそうに右手をあげる。「これ、今もいだ柿。妹のところのだけど、おいしいからどうぞ」
小さな手に、小さなすっかり熟した柿がのっている。
午後、小学校でワークショップ。この本島小学校は、先週、やはり“音の写真を撮る”ワークショップをやった本島中学校のすぐ近所、同じ通り沿いにある。プールも共用であることがわかる。
ワークショップは五時間め(一時四十分)。参加者は全校生徒二十四名と先生方。スタッフはウメタニ、ユヅキ、ノセ(記録)。音楽室にて。
まず、準備体操みたいに、クレヨンなどで紙にひらがな一つ、書いてもらう。「もうできちゃったよ」という子、何を書こうか、こっちの方を気にしつつ、迷っている子など、さまざま。一、二年生はおとなしく、けれどこちらが話しかけるとニコッとかわいらしく笑う。三、四年生になると、にぎやかで、私が、これから一時間よろしく、と話しかけたら、五分くらいして「もう一時間、たったよ」とふざけて話しかけてきたりする。五、六年生はまたおとなしくなる感じ。
使い捨てカメラを配る。オモチャを配ったみたいな反応に、一気になる。
今日はこれから一時間、ちょっとだけふしぎな授業をします。ここは音楽室だけど、音楽の授業じゃありません。クレヨンがみんなの机の上にあるけど図工でもなくて、だけど図工かもしれず、やっぱり音楽かも、これから外にも出るから体育かもしれない、そんな五時間めです。今、使い捨てカメラを配ったよね。このカメラで音を撮ってください。もちろん、テープレコーダーみたいに録音はできないけれど、でも、たとえば(といって、大ダイコのバチでドンッと黒板をたたき、それをパチリと撮る)こんなふうに撮れば、写真を見て音が聞こえてくるかもしれないね。(タンバリンをカチャカチャ鳴らしながら、大きな鏡の前に近づいて)こんなふうにして撮ってもいいよね。いろんな撮り方がきっとさがせる。ここは音楽室だから、音の鳴るものがいっぱいあるけど、教室の外にもあるかもよ。さがしに行こう。
先生たち、スタッフも一緒になって教室の外へ。一年生、二年生にはむずかしいのでは? という心配は杞憂だったようだ。校長先生も一緒になってカメラを持って参加してくださる。
水飲み場や水そうなど、同じところに集まってしまうので、ちがうものも撮ってみようよと、うながしたりする。でも、そう言いながらも、余計なことを言っているのかもしれないとも、思う。同じ場所に集まって、同じものを撮っているようで、じつはまったくちがうものとして見ているのではないか、と。中学校でのときも、そういえば、そんなことを感じた。
「空、撮ってええ?」
男の子がひとり、そう聞いてきて、カメラをまうえに向ける。私にも見れるように、手をたかくあげて、二人でファインダーを覗くと、雲ひとつない、青いだけの四角い空。
いいじゃん、と言ったが、それ以外の言葉が浮かばない。どんな音が聞こえてるの? とか言えたらよかった。完全に彼の発想に負けていたのだ。木があるのでも、鳥が横切るでも、雲があるでもなく、ただ青い空の「音」。
校庭にはほかに、砂をパッとまいて、それをカシャッと撮る子、友だちがジャンプしたところを撮る子。高学年の女の子に、何かいいのが撮れた? と聞くと「人間」という返事。これもおもしろい。スタッフのユヅキさんは大学生だが、障害のある子供たちと接する仕事もしているそうで、だからか、子供たちが自然に寄ってきている感じ。大きなお兄さんというのは、それだけでもきっと、子供たちにとっては魅力的だろう。ちょっとだけ、うらやましい気がする。そういえば、あとで、そのユヅキさんは、「ナンカイキャンディーズの二人に似ている」といわれたそうだ。ヤマちゃんの方とかシズちゃんの方とかではなく、「二人」に似ているというのも、いい表現だと思う。そのユヅキさんがつづけて、「フクナガさんのこと、知ってる子がいましたよ。昨日だったか、前に声をかけられたけど、修行中だったからこたえられなかったんだそうです」。そうか、あれは修行してたところだったのか。無視されてうれしい気持ちになったのは、はじめてのことだ。
あっという間の四十五分。いろいろと反省点が浮かぶが、なかでも校長先生が、ワークショップが始まる前、私たちに言われたこと、「ここでは一年生から六年生まで、ずっと一緒にいます。少数で、ずっとおなじ顔ですから、会話もソザツになってきます。語彙が少ないんです。コミュニケーション能力が育たないという面があるんですね。だから、ここでは元気ですが、島の外へ出ると急に無口になってしまう。そういう意味でも、こういう外からの刺激、外から来られた方にワークショップをやってもらうというのは有意義なことです」。この言葉が、雲ひとつない帰り道、真木邸へ向かう道すがら、思い出された。









タカシマ館長の背中
10月11日(水)
朝七時、初めてのゴミ捨て。別にゴミをためていたわけではない。これまでの二週間、瀬戸内アートウェーブのスタッフの方々がいろいろ、食事とか掃除とか、やってくれていたので、私が日常のこまごまとしたことをやる必要は(自分の分の洗濯を除いて)なかったのだ。丸亀市指定の黄色っぽい袋を二つさげて、すこし離れた海岸沿いのゴミ置き場へ向かう。
いよいよ明日、滞在を終えて本島を離れる。昨日の晩から明日まで、一人で、この大倉邸東で過ごすことになる。タカシマさんもゴミを捨てに行っている。その背中が遠くに見える。
正午近く、中学校と小学校へカメラを回収に行かねばならない。真木邸の窓ごしに、先日中学校と小学校でワークショップをやって、これからそのとき使ったカメラを回収してきます、と保存センターで新聞を読んでいたタカシマさんに言う。タカシマさんも窓からこちらを見て、「ああ、そう」とうなずく。ついでに、昨日の夕方、四国新聞の記者が取材に来た話をタカシマさんに伝える。
取材はウメタニさん、ノセさんが中心に応対した。二人はときにながく、ときに交互に、今回のプロジェクトの概要及び、現在のフクナガの滞在がどう展覧会のかたちにまとまり、また来年の三月に予定している書籍がどういった内容をもつのか、できるだけていねいに語る。とはいえ、現在進行形でことは進んでおり、日々プランの変更もあるので、ウメタニさんとは旧知の仲らしいが、記者は頭をかかえていた。「だいたいのイメージは、おぼろげに描くことができそうな気がするんですが、それが記事の言葉として定着しない……。わかりやすい何かがあれば、新聞としてはありがたいわけですが……。たとえば、この島に来て、彫刻をつくると、そういうことであれば非常に助かります。見出しも書きやすいし。彫刻をつくるとか、そういうのは、まあありがちなことかもしれないですが、そこまではっきりとしていないと、こういう記事は書けないのです。デスクがうんといわない」
「わかります。署名記事であれば、またちがってくるでしょうね」とノセさん。
「はい。自分なりの想像力で、それは書けますから。ただそうじゃない客観的な記事だと、はっきりとした目的があって、それが、しかも、わかりやすくなければ……。フクナガさんは、ここで小説を書くのではないのですね?」と記者さん。
小説を書くのではない、と私。
ただ、毎日、日記を書いていて、その日記のなかにだんだん言葉が集まってきて、その言葉のなかには、この笠島の、この保存地区に暮らす人々のセリフや振る舞いなんかが集まって、しだいに物語めいてきている。最初からそれは意図していたことではないけれども、おそらくこれをまとめたものが、今回の滞在の成果の一つではあるだろう(とフクナガが言う)。
つづけてウメタニさんが「ワークショップや、ひらがなひと文字を集めることとか、それらがその〈物語〉にどうからんでくるかは未定で、だけどわたしはその過程が重要だと思う」と述べ、ノセさんは「文化庁が委嘱した事業であって、今回のプロジェクトはひとつのモデルケースとしての枠組みをもっている」と、示唆するが、記者さんはウーンと考えている。「また来る必要がありそうですね」と言う。
ここまで詳しくではないが、タカシマさんに、丁寧な取材を受けたものの、やはり、わかりづらいらしいというと、「そう。そうなんよ」と、ちょっと笑う。
「わしも、だいたいはわかるんじゃが、どんな結果になるか、これはまだわからん。まあ、たのしみにしてます、というところかな」
小学校、中学校からカメラを回収する。今日回収できなかった分はまた明日、取りに行くことにする。一度、真木邸に戻って、おそらくは今回の滞在では最後のひらがな集めに。よくうどんを食べに行っていた、ふれあい茶屋のおばさんたちに書いてもらう。それから、ニシモトさんにも書いてもらう。ちゃんと話すのは、イカとベラを持ってきてくれて、祭りの歌をみんなで聞いた、あの日以来だ。近所だし、もちろん自転車に乗って港の方へ向かう姿を見かけたこともしばしばあったが、こちらが挨拶すると、にが笑いのような、テレたような表情で通り過ぎるのだった。
だが、今日は、あのときの陽気な感じで、ひらがなを、好きな文字ひとつをここに、といって紙とペンを差し出すと「おう。一つ? ひらがな一つ……」といって、〈きびう〉と書く。横にいる奥さんが「ひとつじゃないがな」という。
「きぼう、と書こうと思ったんじゃ」
「お父さん、そこ〈び〉じゃないがな」
「ちがう? おう、こうか。“希望”と書こうと思ったんじゃ」
〈きびう〉のとなりに〈きぼう〉と書きなおし、名前を書きつけた。お二人のほのぼのとしたやりとりに、私はすっかり感動して、なぜか書いた紙を二つ折りにしてどこかへやろうとするニシモトさんから、あわてて受け取った。ありがとう、と礼を言って立ち上がると、「おう、ごくろう」といって、白いランニングシャツの背中を見せた。奥さんは小さく廊下に座ったまま、頭を下げた。
外に出て、あらためて、二つ折りになった紙をひろげ、並んだ二つの〈きびう〉と〈きぼう〉を見つめる。二つの“希望”が、今、目の前にしていた二人の老夫婦の姿に重なる。





日記








































セオさんの「花壇」
10月12日(木)
十時、真木邸を開ける。駐車場でセオさん、ジョウロで水をかけている。砂利の敷き詰められた駐車場のわきに、花を植えているのだ。
駐車場と家のあいだをぬう、昔ながらの(ここの特徴でもある)狭い路地を通って、私は毎日、真木邸を開けに行った。その真木邸の畳の上にねっころがって、ワークショップをどうしようかとか、展覧会はどうしたらいいのかとか、考えてきた。
ねっころがっていると、障子の窓越し(「腰格子付雨戸構え」というのだそうだ)から、すぐ向いのまち並み保存センターの、彼自身大工であるタカシマさんが観光客に、「家の大工はまがったものをまっすぐに、船大工はまっすぐなものをわざわざまげて使う、そういうちがいがあるといわれますが、塩飽大工は、その両方をよく知っていたんですな」といった解説する端正な声や、「解説つきだと二百円よぉ」と陽気に観光客と談笑するセオさんの声がよく聞こえてきた。もうすっかり耳になじんだ二人の声を聞きながら、おれはこういう言葉を、こういう言葉をこそ、書きとめに来たんだなと、そう思うようになったのは、いつくらいからだろう。
セオさんの「花壇」からすこし離れたところに、小さな赤いつぼみをつけた植物が生えている。九月二十八日に、この島に着いたときから、気になっていた。
「ああ、これはヨジソウいうのよ。ここらへんでよく見かけるでしょう?おろこばえ、ゆうてね。そんなところ、道端に生えていたりするのは、ちゃんと植えたんじゃなくて、種が飛ばされて、咲いたんだね。そういうのを、おろこばえ、いうの。そして、四時に咲くから、ヨジソウ。本式の名前はわからないけどね。ここらあたりでは、よくいってるわ」
駐車場を花いっぱいにするんですねというと、セオさんは、
「おうよ。するでえ。昔はそうだったのよ。花が咲いてたよ。もっとずっと昔は海だったのよ。このへんまでね、ずーっとね」
正午、ワークショップで使ったカメラの回収のつづき。
真木邸のある保存地区から本島小学校、中学校までは、あるいて二十分くらい。そんなに遠くはないのだが、道なりに曲がったり、まっすぐ歩いたり、前から横から浴びる日差しが、昨日もそうだったが、いちいち強烈だ。京都も残暑はきびしいのだけれども、何か種類のちがう暑さに思える。そういえば、小学生も中学生も、タカシマさんも、そのタカシマさんとおさななじみで子供のころよく塀をよじのぼったもう一人のタカシマさんも、猟師のヤマグチさんも、高槻から一時的に帰郷していたサシモノ大工のトヨシマさんも、〈大漁〉帽子のよく似合う三人めのタカシマさんも、サツマイモ畑でマジックペンをサッと麻袋から取り出したミヤケ夫妻も、イカやベラを持ってきて「うまかろうが?」といいつつ、自作の歌を披露してくれたニシモトさんも、みんなよく日に焼けていた。
漁や畑で、外で仕事をしてきた、そして今もしている人間の強い色が、深いしわとともに体に刻まれている。塩飽大工の昔から、いや、もっと以前から、ここに生きる人たちの、それは色なのだろうと思う。
携帯電話がぴろりんぴろりりんと鳴る。ウメタニさんからで、もう大倉邸東にいるという。今日の昼、丸亀からヒラノさんと来るとは昨日、聞いていたから、もしかしたら、カメラ回収の道の途中で会うかなと思っていたのだが……。たぶん職員室に行っているあいだに、行き違ったのだろう。帰り道、とぼとぼ歩いていると、ヒラノさんが車で迎えに来てくれる。
大倉邸東の「東」とは何かというと、カギにマジックでそう書いてあるからである(もう一軒、この地区には大倉邸があるから、それと区別するためだろう)。その大倉邸東を掃除、そしてひとまずここ本島での最後の打ち合わせ。今日の夕方には島を出る。
ひらがなを並べることで展示を構成するとか、プロジェクターで作品っぽく映像を投影するとか、そういう考えはもうなくなっている。インスタレーションみたいに場所を占有するのは、私には似合わない。ではどうするか?
「小学生たちに来てもらったらどうですか」
ワークショップの写真を展覧会でどう見せたらいいか、話し合っていたとき、ヒラノさんがふと、そういった。それはいい、すぐに同意した。ウメタニさんも「二十三日は休日だし、生徒たちを学校の外へ連れて行くとなると、いろいろ手続きを経なければならないだろうけど、おもしろいと思う」と賛成した。それからは、種が飛んで花が咲くみたいに(おろこばえ、みたいに?)、具体的にしていく案がパッパ、パッパと飛び出した。
小学生、中学生だけでなく先生にも来てもらって、ワークショップでやった〈音を写真に撮る〉、その写真に撮った「音」を実際に出してもらおう。スタンドマイクを立てて、口で出したり、あるいは物をたたいたり、こすったりして、写真に写った「音」を再現してもらおう。真木邸をカフェみたいにして、島の人たちに披露しよう。ひらがな一字、集めたものも、手づくり本としてまとめて、ここで読んでもらおう。当日は、この笠島地区のふれあい祭りなので、ちょうどそのお祭りに出店するみたいに、参加しよう。
展覧会というかたちではなく、一日だけでいいから、生きた声を、このからっぽの真木邸に、ふだんは雨戸の閉まったこの「伝統的建造物」に、おそらくは様々な声がかつてはとびかっていたはずのここに、ひびかせよう。

フェリーの時間がちかづいてきた。セオさんに真木邸のカギをわたす。ちょっとさみしそうな、困ったような表情。こちらもたぶん、同じ表情だったと思う。
最後にセオさんの「花壇」を見る。駐車場のあちこちにも、花が咲いている。それが私たちのように一瞬、思える。